2011年5月3日火曜日

イギリスのエネルギー・気候変動大臣による石油ピーク認識は?


イギリスの新聞『ガーディアン』紙は、2010年3月21日付で以下のようなタイトルの記事を掲載しています。

Energy minister will hold summit to calm rising fears over peak oil」(Guardian, 21 March 2010)


記事によると、2010年3月に、イギリスのエネルギー・気候変動大臣が「石油ピーク」に対する政府の対応を話し合うための会議に出席していたといいます。


この会議は、「参加者はここで得た情報を自由に利用可能だが、発言者の特定をしてはならない」という、いわゆる「チャタム・ハウス・ルール」(Chatham House Rules)のもとで行われたため、エネルギー・気候変動大臣の「石油ピーク」に対する認識や彼の発言そのものを知ることはできません。


とはいえ、記事を掲載した『ガーディアン』紙も述べているように、こうした会議に大臣が出席したこと自体が「政府の重要な方針転換」だと言えるでしょう。


アメリカ同様、イギリスも「知っている」のです。知っていて、あえて政府レベルでは「知らんぷり」ということなのでしょう。


翻って、日本の政策担当者はどうでしょうか。日本の政治家が、官僚が「石油ピーク」に言及することはほとんどありません。これは、アメリカやイギリスと同様に「知っていてあえて言及しないのか」、それとも「知らない」のか……。


政策担当者がどのように振る舞おうと、何を言って、何を言わないかも、それは自由だと思います。しかし、すべては、まず「きちんと知ること」からはじまるのではないでしょうか。

アメリカ軍による石油供給予測



2010年度の、アメリカ軍の統合戦力軍(US Joint Forces Command)による報告書『統合作戦環境報告』(The Joint Environment Report 2010)では、「石油ピーク論」を裏付けるような言及がなされています。

報告書の中で、「2012年までに石油生産の余剰能力は全くなくなり、2015年には日産1000万バレルの供給不足に陥るだろう」(同レポート、29頁)と述べられているのです。

この石油供給に関する展望は、「石油ピーク論」を主張してきた研究者たちの見解とほぼ同一のものです。これまで通り、右肩上がりに石油の供給量が増え続ける時代は終わったのだ、という認識です。

エネルギーの専門家にとって、こうした見解はかねてから主張されてきたことであり、特段目新しいものではありませんが、これまで石油の将来予測について極めて楽観的な姿勢をとり続けてきたアメリカの政府機関である軍のレポートでこうした認識が明示されたということは特筆に値する出来事だと言えるでしょう。

アメリカは「知らない」から楽観的なのではなく、「知っていて」その上で「確信犯として」あえて楽観的な見解を示している(示してきた)と解釈するべきです。「本音」と「建前」をきちんと使い分けているのです。

「建前」や「公式見解」のみをベースに思考を組み立てていく危うさが、このレポートの何気ない一行にも見え隠れしています。知っている人は、きちんと知っているのです。

2011年4月30日土曜日

石油という名の奴隷


現代文明は、石油の上にプカプカと浮かんでいるようなものだ、とたとえられることがあります。文明は、「余剰食糧」によって誕生したものですが、「余剰食糧」とは突き詰めれば「余剰エネルギー」のことだとも言い換えられるでしょう。

現代文明は、主に石油を中心とした化石燃料によって、その「余剰エネルギー」を生み出しています。

石油がエネルギー源として優れているのは、「常温で液体」という性質によるところも大きいと考えられます。「常温で液体」だから、内燃機関(エンジン)を動かすことができるのです。石油で飛行機は飛びますが、「常温で固体」の石炭では飛行機は飛びません。

現代社会は、「常温で液体」の石油に最適化された社会を作り上げています。船舶も、飛行機も、自動車も、トラクターも石油によって動かされています。

上のイラストは、そんな石油文明に生きる「現代人」を風刺したものです。文句もいわずに働く「石油という名の奴隷」の上に現代人は立っているのです。一般的な現代人は、1人で60〜100人分の「石油という名の奴隷」を抱えているようなものだと計算されています。

「石油ピーク」は、この状況に否応なく変化をもたらすことになるでしょう。「安く大量に奴隷を抱えられた時代」は終わりを告げようとしています。

この現実に気がついた時、私たちはどのような政策的対応をとるべきなのでしょうか。Creative Policyが求められている所以です。

エネルギー問題を理解するカギとしてのEPR


エネルギー問題を理解するためには、EPR(Energy Profit Ratio)ないしはEROI(Energy Return on Investment)という指標を用いて考えることが重要です。EPRもEROIも、同じ概念ですので、以下EPRを使用することにします。

私たちは、「エネルギーを(自然界から)取り出す技術」は持っていても、未だ「エネルギーを生み出す技術」は手にしていません。私たちが今使っているエネルギーは、すべて、何らかの形で「自然界から取りだした」エネルギーです。

自然界からエネルギーを取り出すためには、エネルギーが必要です。初期の陸上油田であれば、「穴を掘るエネルギー」が必要です。カナダにあるようなオイルサンドから原油を取り出すためには、水蒸気(淡水+天然ガスで生成)が大量に必要になります。これが「投入エネルギー」(Ein)です。

投入エネルギーを用いて回収されたエネルギーは、「回収エネルギー」(Eout)として表されます。

私たちは継続的にエネルギーを取り出すために、「回収エネルギー」をすべて社会で使うことはできません。次の「投入エネルギー」を残しておく必要があります。

したがって、「社会が使える余剰(正味)エネルギー」(Enet)は、「Eout − Ein」となります。

EPRとは、こうした一連のプロセスを念頭において、どの程度エネルギー効率が良いのか(または悪いのか)を知るための指標です。求め方は、「回収エネルギー(Eout)÷ 投入エネルギー(Ein)」という単純な割り算によって得られます。

つまり、1リットル分の石油を使って、100リットル分の石油を取り出すことができれば、EPRは、「100÷1=100」となり、EPR=100となります。

同様に、100リットルの石油を取り出すことが可能だけれども、産出にエネルギーがかかり、50リットル分の石油を使わなければ取り出せないような資源があったとすると、EPRは、「100÷50=2」であり、EPR=2となります。

同じ100リットルを取りだしても、両者はエネルギー的に持っている意味が異なるということです。だから、どれだけの「量」がとれるのかというのは、あまり本質的な問題ではなく、「どうやってその量を確保したのか」という「エネルギーの質」の方が重要なのです。

問題は、EPRが「1以下」になるような場合です。つまり、100リットル分の石油を取るのに「深追い」をしてしまい200リットル分の石油を使ってしまったら、EPRは、「100÷200=0.5」であり、EPR=0.5となってしまいます。こうなってしまっては、もはや取りだしたエネルギーにエネルギーとしての価値はなくなります。

「量」ではなく「質」である。エネルギー政策論を考える場合には、必ず考慮に含めなくてはいけない指標、それがEPRなのです。

原油の値段が上がれば石油供給量は増えるのか?


上のグラフは、原油の値段と油田開発の投資額を表したものです。このグラフが示しているように、両者の間には明確な関連性があると言えます。原油の値段と油田開発の投資額は共に連動しているのです。

エコノミストの中には、「原油の値段が上がれば、油田開発のための投資額も増え、新たな油田が開発されるため石油の供給量は伸び、価格は調整される」と考えている人も多いようです。

このグラフが示しているように、確かに、油田開発のための投資額が増えることは間違いなさそうです。しかし、問題は、「石油の供給量も伸びる」という部分です。

Creative Policy Supportが繰り返し述べているように、我々の暮らす地球は「有限」です。「自然にも資源にも限りがある」のです。そして、石油は典型的な「枯渇性資源」です。「枯渇性資源」は、技術的・物理的制約から、必ず生産ピークが訪れ、その後生産が減退していくことが知られています。

この「宿命」からは、どうあがいても逃れることはできません。そのことを示唆しているのが、以下のグラフです。

この図は、アメリカのブッシュ政権でエネルギー政策のアドバイザーも務めたシモンズ(Matthew R. Simmons)が行ったプレゼンテーションスライドをまとめ直したものです。

グラフが示しているように、原油価格が上がれば、原油生産の上流部門への投資額も連動して増えています。2004年から2008年までの平均支出は、1992年から1999年までの平均支出に比べ約4.5倍になっています。

しかし、原油の生産量は、2004年以降、ほとんど横ばい状態です。つまり、既存の油田の減退分を補うのがやっと、ということなのです。

これが、「枯渇性資源」の抱える「宿命」です。「石油ピーク論」が主張していることは、こうしたデータからも裏付けられていると言えそうです。

「枯渇性資源」の「宿命」は、「マネー」も「技術」も解決してはくれません。求められているのは、こうした現実を受け入れた上での、Creative Policyなのではないでしょうか。

国際エネルギー機関が在来型石油の産出ピークは2006年だったと報告

(出典)International Energy Agency, World Energy Outlook 2010, International Energy Agency, 2010, p.122に一部加筆。

国際エネルギー機関(IEA)は、毎年、『世界エネルギー展望』(World Energy Outlook)と呼ばれる報告書を発行しています。上の図は、最新版である2010年度の報告書に掲載されたものです。

国際エネルギー機関は、これまで「石油ピーク」に対して「楽観的」な見解を示し続けてきましたが、ここ数年、徐々に厳しいものに変わりつつありました。より現実に即した見解を示すようになってきていたのです。

そして、2010年。これまで「石油ピーク」に対して否定的であった国際エネルギー機関が、自ら、「在来型石油の生産ピークは2006年だった」と発表したのです。「過去形」の表現が使われました。

ピークが訪れるということは、その後は減退していくということです。そこで生まれる需給ギャップは、「非在来型石油」を中心に埋めていくことになります。

しかしながら、「非在来型石油」は、EPR(Energy Profit Ratio:エネルギー利益率)が、「在来型石油」に比べて極めて低いのが特徴です。つまり、取り出すためにかかるエネルギーが極めて大きい、エネルギー的に非効率な資源だということです。

考えてみてください。初期の油田は、陸上で穴を掘れば、そこから勢いよく自噴してきました。穴を掘るだけのエネルギーで、大量の原油を取り出すことができたわけです。

今では、こうした油田に比べると極めて小規模の油田に対して、「深海」や「極地」で、膨大なエネルギーを使いながら取りだしています。カナダのオイルサンドなどから原油を取り出すにに際しても、大量の水蒸気(貴重な淡水+天然ガスで生成)が必要です。

これまで私たちの社会を、文明を支えてきたような石油とは、比べものにならないくらい「取り出しにくい」(取り出すのにより多くのエネルギーが必要な)資源に頼っていくということでもあります。

このことが、国家のそして、地方の、コミュニティのエネルギー政策にどのような意味を持つのか、真剣に考えておかなくては「手遅れ」になる可能性があると言えるでしょう。

石油会社トップ、石油ピークを認める!


ブラジルの国営石油会社「ペトロブラス」(Petrobras)のCEOガブリエリ氏は、2009年12月に行われたプレゼンテーションにおいて、上の図を示し、世界の石油供給のピークは2010年だろうという認識を示しました。

これまで石油業界は、自らの利益を守るためか、パニックを起こさせないようにするためか、概して石油供給について楽観的な見通しを示し続けてきました。そんな中、産油国であるブラジルの国営石油会社のトップが自ら、「石油ピーク」に言及し、それを認めるような発言をしたことは大いに注目されます。本音が垣間見られた、ということなのでしょう。

上の図が示すように、世界の石油供給量は右肩下がりに下がっていくことが予想されています。他方、この図の中で右肩上がりに延びている線は、今後見込まれる世界の石油需要量です。

今、中国やインドといった新興国は、急速に石油消費量を拡大させています。こうした需要を供給側が満たせなくなると、そこに需給のギャップ(乖離)が起こります。これは、かつて人類が経験したことのない現象です。そして、これこそが、いわゆる「石油ピーク問題」です。

ペトロブラスのトップ、ガブリエリCEOがこうした認識にいたった背景は、以下の図に集約されています。


この図は、世界中の既存油田が毎年どの程度「減退」しているのかを示した棒グラフです。横の赤線は、世界最大の産油国サウジアラビアの原油生産量(2008年)を示しています。

この図から得られる彼の結論は、「原油生産の減退を補うためには、2年ごとに"新しいサウジアラビア"を発見しなくてはならない」というものであります。さらに、新興国の需要を満たすためには、それ以上の油田を発見しなくてはいけません。

「これは実質的には不可能だ」というのが彼の結論です。したがって、全世界の石油供給のピークは、2010年だろうという認識にいたったわけです。

この種の見解は、日本のメディアで取りあげられることはあまりありません。しかしながら、こうした事態は現在進行形で起こっているのです。この難問に、どう対処していくべきか。政策担当者は、真剣に考えなくてはならない、と言えるでしょう。

2011年4月29日金曜日

「取り出す価値のある石油」の残りはどのくらい?


私たちは、一体、あとどのくらいの石油を使うことができるのでしょうか。この問いは、昔から繰り返し問われてきた、ある種古典的な問いだとも言えます。

この古典的問題を考えるにあたっては、一見関係がなさそうな上のイラストを理解することが有用です。このイラストは、「ラビット・リミット」として知られています。

ウサギ狩りをする時に、「深追い」をし過ぎて、ウサギから得られるエネルギーよりも多くのエネルギーを消費してウサギを捕まえたところで、生命を維持することはできません。

家で待つ妻がいる場合は、1羽のウサギから2人分のエネルギーを得なくてはいけないので、半分の距離でウサギを捕まえなくてはいけません。大家族が待つならば、追ってウサギを捕まえて意味のある距離はさらに短くなります。

つまり、食糧となるウサギが何羽残っているのかという「量」が問題なのではなく、そのウサギがエネルギー効率的に捕まえるだけの意味を持っているのかという「質」が重要だということです。

エネルギーも同じことです。エネルギーを自然界から取りだして、私たちが使える形にするためにもエネルギーが必要なのです。

私たちは、ついつい「あとどのくらいの資源が残っているのか」という「量」ばかりを考えてしまいがちです。でも、「深追い」しすぎて、取りだした資源が持っているエネルギーの量よりも多くのエネルギーを使ってしまっては、その資源にもはやエネルギーとしての価値はありません。

したがって、本当に問われなければいけないのは、エネルギーの「量」ではなく、その「質」なのです。

現代文明を支えている石油の場合、その埋蔵量は多く、9兆バレルとも10兆バレルとも言われています。しかし、「深追い」し過ぎては、仮に石油を取り出せたとしてもエネルギー的な意味はありません。

実際のところ、「ラビット・リミット」的に考えて、取り出すだけの価値がある石油は全部で約2兆バレルほどだと見積もられています。そのうち、我々人類は、すでに約1兆バレルを消費してしまいました。残りは約1兆バレルです。それも、これまでよりも「深追い」しなくてはならない、「取り出しにくい」石油です。

ちなみに、1兆バレルとは、富士山を升に見立てると、その約10%ほどの量になります。「安く大量に石油があった時代」は終わりを告げ、これからは「高く貴重の石油の時代」に私たちは突入しようとしているのです。

乖離する3つの成長曲線


この図は、「石油ピーク論」の祖とも言えるハバート(M. King Hubbert)によって、1976年の論文で掲載されたものです。

この図が示すように、この世の中の成長曲線は3つのタイプに集約されます。

第1のタイプは、「指数関数的無限成長」(unlimited exponential growth)であり、マネーや経済指標であるGDPの世界です。

第2のタイプは、再生可能資源(renewable resource)であり、ある一定ラインまでは成長するけども、その限界以上は成長することがないという世界です。たとえば、川の浄化作用や森林資源などが該当します。

第3のタイプは、枯渇性資源(exhaustible resource)であり、あるところまでは成長しますが、ピークを迎えた後に減退していくという世界です。これには、再生不可能な資源、すなわち、石炭、石油といった化石燃料や、ウラン、リチウムなどの鉱物資源が該当します。

ハバートが訴えたかったのは、「はじめのうちは、この3つの成長曲線は同調しているかのように見えるが、やがて乖離をはじめ、原理的に考えてこの3つの成長曲線がいつまでも共存することはできないだろう」ということです。

つまり、「地球は有限」、「自然にも資源にも限りがある」、「その中で経済だけが無限成長していくという世界は矛盾している」ということです。

私たちは今、1976年に提示されたハバートによる問題提起に対して、どのような回答を示すことができるのか、その真価が問われているのだと言えるでしょう。

地球からこぼれ落ちる人類?

このイラストは、石井吉徳先生(東京大学名誉教授、元国立環境研究所所長、もったいない学会会長)が描いたものです。

地球から人類がこぼれ落ちていることを示しています。このイラストが描かれたのは、1984年のこと。今から約30年前のことです。

このイラストは、1984年当時の地球について描いたというよりも、来たるべき将来を予測して描かれたものだと思われます。そして、2011年の現在、このイラストは現実のものとなりはじめているのではないでしょうか。

イラストが発するメッセージはいたってシンプル。「有限地球において無限成長はあり得ない」、この一言に尽きます。

産業革命以来、人類はかつて経験したことのないスピードで経済規模を拡大し続けてきました。経済成長は「利便さ」を生みだし、「豊かさ」の源泉だとも考えられてきました。

しかし、「有限地球において無限成長はあり得ない」。石井先生は、地球物理学者。地球物理学が扱う時間のスケールからすると、この数百年などほんの一瞬のこと。上のイラストは、ごく自然に頭に浮かんだことでしょう。

とはいえ、頭ではわかっていても、どうしていいのかわからない。でも、このまま突き進むことは原理的に不可能です。だからこそ、従来の発想を超えた思考の枠組みで、Creative Policyを打ち出していく意味があるのだと思います。

有名な理論物理学者、アルバート・アインシュタインは、「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセット(心の枠組み)のままで、その問題を解決することはできない」という言葉を残しているそうです。

次の時代を切り開くCreative Policyは、これまでとは違うマインドセットを獲得するところからはじまるのだと言えそうです。